猫 舌

1.始まり(第壱幕)

「……」
「……」

十六夜が汁椀を受け取ってから、
軽く2時間が経過しようとしていた。

朔耶が熱々のけんちん汁を用意したものの
どうも十六夜は極度の猫舌らしく
汁が完全に冷め切る迄は
口にする事も儘ならなかった。
更に、口に入れたは良いが噛む回数が非常に多く
それに伴い飲み込む迄の時間が長く掛かる。
そして今、まだ汁は食べ切れていない。

「……おせぇ」
「人それぞれだ、仕方が無い」
「にしても兄ぃ…。
 これじゃ外食無理ッスよ?」
「そもそも十六夜が外食を好むかどうか…」
「ま、まぁ…兄ぃの味に慣れちゃうと
 流石に外で食う気失せますけどね」
「……」
「……」

十六夜の表情は、と云うと
ゆっくり食してはいるが何処か楽しそうだ。
安心して食事が出来る事に
満足しているのかも知れない。

(不憫な奴だな…)

その姿を見つめながら朔耶は
胸の奥が鋭く痛むのを感じていた。

(飯なんて…当たり前だと思ってた。
 いつでも食える、そう信じてた。
 だが、今この日本に於いて
 こんな風に飯に有り付けない人間も居たんだって事、
 俺はまるで知らなかった。
 いや…知ろうとしていなかっただけかもな…)

具沢山とは云え、所詮は汁物である。
だが十六夜は、この一杯で満足したらしい。
手を合わせ、軽く会釈をし、感謝を伝える。
みすぼらしい身形であった人物とは思えぬ程
その『御馳走様でした』の姿が様になっていた。

「もう、良いのか?」
「腹は満たされた。ありがとう」
「美味かったか?」
「あぁ、初めてこんな美味い物を食した」
「初めて?」
「そうだ」
「…そうか」

一体どんな生き方をして来たと云うのだろう。
朔耶は、目の前のこの男に
更なる興味を抱いている自分を感じていた。

「もっと美味い物、色々と食わせてやるから。
 そう言えば、食い物の種類…余り知らないか」
「…あぁ。食べ物に関しては」
「そうか…。
 お前、見たところ かなりの猫舌だよな」
「猫…舌?」
「熱い物が食えないって事。
 けんちん汁、最初熱くて吃驚してたろ」
「…確かにな。舌が痺れた」
「冷たいのも駄目かな?」
「ん?」
「例えば笊蕎麦ざるそばとか」
「笊…蕎麦?」
「見た事も無いか?」
「…うむ、知らぬな」
「そっか…。じゃあ、一度作ってみるか」
「食えるのか?」
「勿論! お前の為に作るんだぜ」
「…かたじけない」
「気にすんなよ」

笑みを浮かべ、十六夜の髪を優しく撫でてやる。
口調は左程気にならなくなっていた。
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