朔耶さん

「じゃあ、服は此処に有る物を好きに着てくれれば良いから。
 着方が解らなければ、直ぐに教えてくれ」
「ありがとう御座います、朔耶さん」
「……」

朔耶『さん』。

十六夜そっくりの顔と声を持つ男。
彼は朔耶を【朔耶さん】と呼んでいる。
『呼び捨てて構わない』と言ったのだが
どうしても聞き入れてもらえないでいる。

自分に対してタメ口ではなく、
丁寧な口調である事にもなかなか慣れない。

目が覚めた時、
彼は自分が誰であるかも判らない状態であった。
時間が過ぎ、落ち着きを取り戻したであろう今でさえ
自分の名前一つ思い出せないままなのだ。
自分自身が何者であるか、が判らない状態。
朔耶はこの男が気の毒でならなかった。

「せめて名前だけでも思い出せればなぁ~」
「…済みません」
「あ、いや! 責めてるんじゃねぇって!!」
「……」
「済まん。そんな事、言われたって困るよな。悪かった」
「朔耶さんは何も悪くないですよ」

男はそう言って微笑んだ。
桜の花吹雪と共に消えたあの微笑と瓜二つ。
少しだけ朔耶の胸がズキンと痛んだ。

「朔耶さん?」
「ん? あぁ、大丈夫。気にしなくても良いよ」
「…何でも仰ってくださいね。
 思っておられる事。僕で宜しければ」
「…ありがとう」

嘗ての思い出が苦い感覚を呼び起こしているのを
朔耶は自覚していた。
この部屋で散々意見を述べ合い、口論もした。
そして、記憶に残る二度の交わり。

「…あのさぁ」
「はい」
「名前。やっぱり無いと色々不便じゃねぇか」
「やっぱり、そうですよね」
「……」
「…朔耶さん?」
「…俺が付けても良いか?
 その、本当の名前を思い出す迄の間
 『仮に』使う名前だけど」
「お願い出来ますか?」

男の返答に朔耶は軽く頷いた。
そして。

「俺達が出会った夜に因んで…
 【十六夜】ってのは、どうだ?」
「いざ…よい?」
「満月の次の晩の月の事さ。
 丁度、十六夜の月が輝く晩だったんだ」
「朔耶さんはまるで詩人の様ですね」
「そうか?」
「えぇ、僕はそう思います。
 【十六夜】。素敵な名前ですね。
 ではお言葉に甘えて、そう名乗らせてもらいます」

名を得る事で男は安心したらしい。
終始笑顔を絶やさない。

「気に入ってもらえて良かった。
 これから宜しくな、【十六夜】」
「はい、朔耶さん」

顔で無理矢理笑みを作り
朔耶は複雑な心境を必死に押し殺していた。

* * * * * *

本当にこれで良かったのか、自分でもよく判らない。
3体の使い魔達と夜の境内を散歩しながら
朔耶は自問自答していた。

あれ程愛し抜いた男と瓜二つ。
そんな彼に対し、何の事情も説明せず名を授けた。
自分にとって特別な【十六夜】という名前を。

「俺は…非道い事をしているのかも知れねぇな」
『何デ?』
「…彼奴は十六夜じゃない。
 俺を愛し、俺を護り続けてくれたあの十六夜じゃない。
 解ってる筈なのにな」
『主…』

「俺は彼奴を…俺を信じ、頼ってくれてる彼奴を
 十六夜の代わりに傍に置きたいだけなんだろうか?
 彼奴の気持ちを無視して、
 十六夜の身代わりにしたいだけなんだろうか…?」
『主…。余り思い詰めるな』
『主! 泣クナ!俺モ涙出ル!!』
「ハヤト、リョウマ…」

ハヤトとリョウマは必死に朔耶を慰めようと足元に擦り付く。
それ迄は空中から様子を見ていたムサシだったが
朔耶の左肩に停まると、静かに口を開いた。

『主。全ては時が解決に導く。
 そして、あの男の気持ちはあの男のみぞ知る事』
「ムサシ…」
『あの男が何者であろうとも、
 主が護ると決めたのであればそれで良し。
 我等もその意に沿うのみ』
「彼奴を…護る。
 そうだな、もうあんな思いはしたくない。
 どんな事が遭っても、今度こそ俺は彼奴を…
 十六夜を護り抜く」
『御意』

ムサシの言葉にハヤト、リョウマも同意を表した。

「お前達…ありがとうな!」
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