葛 藤

8. 葛藤(第壱幕)

帰宅後、何故か朔耶は一言も声を発さなかった。
食事の時も、風呂に入っている時も
何かを考えている様に真剣な顔で無言を貫いていた。
十六夜も又、そんな朔耶を気遣ってか
声を掛ける事は無かった。
無言のまま部屋に戻り、二人同時にベッドへ腰を掛ける。
長い、長い沈黙の時間。
顔を合わせる事もなく、そのまま正面を向いて座っている。

先に動いたのは朔耶だった。

「なぁ、十六夜」
「…何じゃ?」
「……」

フッと理性と意識が飛び、朔耶は頭の中が白紙状態になっていた。
十六夜の唇を自身の唇で塞ぎ、そのまま抑え込む。
驚いた表情を浮かべてはいるものの、十六夜が抵抗する素振りは無い。
朔耶が強引に舌を咥内へ差し込んできても
歯で噛んだり、朔耶の舌を追い出したりする事も無かった。
目の前の朔耶を見ている様で、もっと遠くを見つめている様な瞳。

「…嫌じゃ、ない?」

朔耶はそっと唇を放し、恐る恐る問い掛けた。
十六夜は唇が離れた後もベッドに体を投げ出したまま身動きしない。

「十六夜…その……」
「朔耶」

戸惑いがちな朔耶に対し、此処で初めて十六夜は笑みを見せた。
とても穏やかで心に染み入る様な優しい笑みだった。

「十六夜…」
「私を所望か? 朔耶」
「所望って、まぁ…その、俺だけの者にしたいって言うか…」
「構わんよ」
「かま…えっ?!」
「構わん。お主ならば、好きにしても良い」
「それ…本気で言ってる?」
「無論じゃ」
「…滅茶苦茶にしてしまうかも知れないぜ? それでも……」
「私は男じゃ。壊れ等せん」
「十六夜……」
「朔耶。私を、お主だけの者に…」
「…あぁ」

成るべく動揺が伝わらない様に、十六夜は必死だった。
この心の葛藤を見抜かれたくない。だからこそ、淡泊な応対になった。
このギリギリの場面迄も長引いている、自分の葛藤。
朔耶に知られてしまったら、彼はどう思うだろうか。
呆れてしまうだろうか。軽蔑するだろうか。
そして、去られてしまうだろうか。それを知るのが怖かった。
いっそ流されて、何もかも忘れてしまいたかった。この一瞬だけでも。

(こんなにも依存していたのは、私の方だった……)

最早離れられない。それは十六夜が一番恐れていた結果だった。
朔耶の唇が、指が自分の肌の上を走る度に
その甘い痺れに、酔いしれそうになる感触に、十六夜は涙した。
この涙が何を意味していたのか。
それは、流している十六夜にも解らない事だった。
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