消えた記憶

現在編・4

気付いた時には病院のベッドの上だった。
心配そうに自分を見つめる父、恵一。

「俺…?」

何が遭ったのか思い出せない。
どうして自分が此処に居るのかも。

「軽い記憶喪失の様ですね。
 無理も無い…」

医師の言葉に耳を疑う。

『記憶…喪失?
 何の事だ?』

「有難う御座いました…」

医師に深々と頭を下げる恵一。
やがて二人だけの時間が静かに流れる。

「何が…遭った?」

辛うじて丈はそれだけを告げた。

長い、長い時間を要して。

* * * * * *

「母さんと昭美が死んだ」

恵一はそう口にした。

「…嘘だろ?」
「お前は現場で倒れていたんだ。
 多分、犯人と揉み合ったのだろう。
 複数の傷跡が残ってる」
「犯人…?」
「医師が言うには
 お前はその時のショックで記憶を失ったらしい。
 警察の事情聴取も有るのだが
 お前の意識が戻る迄は…と」
「俺…何も判らない。
 信じられない。
 お袋と昭美が…何で……?」

ベッドに顔を埋め、丈は嗚咽した。
その背中を黙って見つめる父。

「警察には私から事情を話そう。
 今はゆっくり休め…」

恵一はそう言うと静かに病室を後にした。

* * * * * *

近所の証言もあり、
第一発見者の丈が
犯人に疑われる事は無かった。
だが、犯人に対する手がかりは全く得られず
この事件はお蔵入りする事になる。

丈は大学に顔を出す事無く
1ヶ月を家で過ごした。

静かに母と妹の事を思い出しては
涙する日々が続いた。

そんな或る日。

ピンポーン

誰も来ない筈の家にチャイムが鳴る。

「?」

首を傾げながらも丈はドアを開けた。

「…どなた、ですか?」

濃いサングラスを掛けた男が立っていた。

「疾風(ハヤテ)と言います。
 遅くなりました…。
 御霊前に挨拶を、と思ったのですが」
「疾風…さん?」
「お父さんの教え子です」
「親父の…。あ、どうぞ」

軽い会釈をし、疾風はサングラスを外した。

鋭い目つきをしていた。
思わずゾクッとする様な、
それでいて妙に惹かれる様な。

疾風は丁寧に手を合わせている。
その後姿を見ながら、
丈は台所へと向かう。
いつの間にか客への対応を体が覚えていた。
茶菓子を用意し、再び疾風の前に姿を現わす。

「どうぞ…」
「あぁ、有難う…」

疾風はこの時初めて笑みを浮かべた。

優しい笑みだった。
* * * * * *

「大変…だったでしょう」

疾風の言葉に、丈は首を横に振った。

「俺、何もしてないですから。
 警察の件も、葬儀の段取りも
 全て親父がやってくれましたし…」

微かに涙が零れる。
悔しい、その感情が涙となった。

「…君は、何も覚えてないんだね」
「はい…。犯人の顔も、人数も。
 何一つ思い出せません」

悔しさを滲ませる丈。
疾風は黙って話を聞いていた。

「あの…」

丈はふと話を変えた。

「疾風さん、
 以前お会いした事…有ります?」
「会ったかも知れないね。
 お父さんには大変お世話になってる身だし」
「そう…ですか…」

初めてではない、のは解る。
しかし、丈が感じたのは
そう云う感情じゃない。

懐かしさだった。
初対面に近い筈の疾風に懐かしさを覚える。
どうしてか、それすらも解らない。
もどかしさが彼の心を支配していた。
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